スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

晴れました

二月最後の日は、ようやく晴天になりました。

気温が上がると雪が融けるのは早かったです。

屋根の雪がゴロゴロ落ちて

道路の黒いアスファルトもすっかり表れました。


こんなお天気に恵まれて来館した女性は

ここ数日、積雪記録更新のニュースがTVに映った八甲田酸ヶ湯温泉にお勤めだそうです。

青森市の自宅から雪深い山の中にバスで通勤する毎日とは、

きっとすごい景色を見ているわけですね。








雪やまず?


昨日、雪の晴れ間に撮った駅に向かう通りの画像



今朝の大雪はものすごい勢いでした。

白い魔物であります。


これは今日、同じ通りの画像


昼12時過ぎ

駅の方から3人の旅人が雪まみれで一列縦隊雪中行軍する姿。

大変なことになっていますが、

こんな日も、我らが津鉄は頑張って動いています。


雪やまず

右を見ても

左を見ても



金木は吹雪の日が続いています。

この冬一番荒れる数日ではないでしょうか。

昨日、一昨日と、こんな厳しい天気の中に訪れてくださる方たちは

優しく感じのいい人ばかりです。

部屋が寒くてすみません、と詫びると、

一様に、この津軽の寒さを感じるために来たのです、という応え。

ありがたいです。 


昭和20年、太宰さんが疎開する年の2月には、東京でも大雪があったそうです。



太宰治『春』昭和20年

 もう、三十七歳になります。こないだ、或る先輩が、よく、まあ、君は、生きて来たなあ、としみじみ言っていました。私自身にも、三十七まで生きて来たのが、うそのように思われる事があります。戦争のおかげで、やっと、生き抜く力を得たようなものです。もう、子供が二人あります。上が女の子で、ことし五歳になります。下は、男の子で、これは昨年の八月に生れ、まだ何の芸も出来ません。敵機来襲の時には、妻が下の男の子を背負い、私は上の女の子を抱いて、防空壕に飛び込みます。先日、にわかに敵機が降下して来て、すぐ近くに爆弾を落し、防空壕に飛び込むひまも無く、家族は二組にわかれて押入れにもぐり込みましたが、ガチャンと、もののこわれる音がして、上の女の子が、やあ、ガラスがこわれたと、恐怖も何も感じない様子で、無心に騒ぎ、敵機が去ってから、もの音のした方へ行って見ると、やっぱり、三畳間の窓ガラスが一枚こわれていました。私は黙って、しゃがんで、ガラスの破片を拾い集めましたが、その指先が震えているので苦笑しました。一刻も早く修理したくて、まだ空襲警報が解除されていないのに、油紙を切って、こわれた跡に張りつけましたが、汚い裏側のほうを外に向け、きれいなほうを内に向けて張ったので、妻は顔をしかめて、あたしがあとで致しますのに、あべこべですよ、それは、と言いました。私は、再び、苦笑しました。
 疎開しなければならぬのですけれど、いろいろの事情で、そうして主として金銭の事情で、愚図々々しているうちに、もう、春がやって来ました。
 ことしの東京の春は、北国の春とたいへん似ています。
 雪溶けの滴の音が、絶えず聞えるからです。上の女の子は、しきりに足袋を脱ぎたがります。
 ことしの東京の雪は、四十年振りの大雪なのだそうですね。私が東京へ来てから、もうかれこれ十五年くらいになりますが、こんな大雪に遭った記憶はありません。
 雪が溶けると同時に、花が咲きはじめるなんて、まるで、北国の春と同じですね。いながらにして故郷に疎開したような気持ちになれるのも、この大雪のおかげでした。
 いま、上の女の子が、はだしにカッコをはいて雪溶けの道を、その母に連れられて銭湯に出かけました。
 きょうは、空襲が無いようです。
 出征する年少の友人の旗に、男児畢生危機一髪、と書いてやりました。
 忙、閑、ともに間一髪。






宮沢賢治 映像童話集

楽しみなプログラム。

↓ NHK広報局資料より

80年後のKENJI 〜宮沢賢治 映像童話集〜
2月20日(水)、27日(水)、3月6日(水) 午後10時00分〜


東北・日本復興のシンボルとして見直されつつある国民的作家・宮沢賢治。“イーハトーブ”の世界を、実写やアニメーション、CG合成など、国際的評価の高いクリエイターが多彩で斬新な演出手法で映像化。故郷愛や、人と人とのきずなを、心の奥深くへ届けます。宮沢賢治の世界が、いま新たによみがえる。

2月20日(水)
「シグナルとシグナレス」(CGアニメーション:御影たゆた)
「注文の多い料理店」(実写&CG合成:渋江修平、出演:荒川良々、皆川猿時ほか)
「雨ニモマケズ」(実写)
「やまなし」(手描きアニメーション:外山光男)
「春と修羅」(フォトストーリー:藤代冥砂)
「十力の金剛石」(CGアニメーション:半崎信朗)

手が冷たい人は心が温かい、とは

寒さ続く2月。

体脂肪計で計測すると「やせすぎ」の数値が出る

僕は若いときから寒がりです。

しかし、冬もここまで来るといつのまにか身体が慣れて、

コート無しで外に出ても、まあ平気になってきました。

冬は始まりが一番ゾクゾク寒さを感じるものです。

また、厳寒の日よりもたまに気温が高くなってみぞれ雪が降る日のほうが

その湿り気が気味悪くうすら寒く感じます。


手が冷たい足が冷たい、という時には、

やっ!とスコップを持って雪を切れば、汗ばむほど内側から温かくなり、

お店に戻れば暑過ぎてストーブを消したくもなりますから、

雪かきも疲労腰痛の悪因になるばかりではありません。(大雪の昨冬はただただ疲れましたが)



「手が冷たい人は心が温かいんだよ」と、

冷え性の人に対する慰めのような言葉をこれまで幾度となく聞いたことがありますが、

それはどこの誰がどんな根拠で言ったことなのか、僕は知りませんでした。

では手の暖かい人は冷徹なのか、という反論が常に頭の中でセットになる、

その言葉が気になりながら幾年月。

先日読んだ太宰治『女の決闘』の中に、さてはこういうことかと合点がいく場面がありました。

何度も読み返しました。

この作品も名文の宝庫でした。



さて、芸術家には、人で無い部分が在る、芸術家の本性は、サタンである、という私の以前の仮説に対して、私は、もう一つの反立法を持ち合せているのであります。それを、いま、お知らせ致します。
 ――リュシエンヌよ、私は或る声楽家を知っていた。彼がいいなずけの死の床に侍して、その臨終に立会った時、傍らに、彼の許嫁の妹が身をふるわせ、声をあげて泣きむせぶのを聴きつつ、彼は心から許嫁の死を悲しみながらも、許嫁の妹の涕泣に発声法上の欠陥のある事に気づいて、その涕泣に迫力を添えるには適度の訓練を必要とするのではなかろうか。とふと考えたのであった。しかもこの声楽家は、許嫁との死別の悲しみに堪えずしてその後間もなく死んでしまったが、許嫁の妹は、世間の掟に従って、忌の果てには、心置きなく喪服を脱いだのであった。
 これは、私の文章ではありません。辰野隆先生訳、仏人リイル・アダン氏の小話であります。この短い実話を、もう一度繰りかえして読んでみて下さい。ゆっくり読んでみて下さい。薄情なのは、世間の涙もろい人たちの間にかえって多いのであります。芸術家は、めったに泣かないけれども、ひそかに心臓を破って居ります。人の悲劇を目前にして、目が、耳が、手が冷いけれども、胸中の血は、再び旧にかえらぬ程に激しく騒いでいます。芸術家は、決してサタンではありません。
                                    
                                太宰治『女の決闘』より




僕はやや涙もろいので、

それでは手が冷たくてしかも薄情の人というようなことになりそうです。

悲しみを深く抱え込んだり上手にごまかしたり、

手放すのが早かったり遅過ぎたり、

外の印象からだけではわからない、いろんなが人がいて世の中です。