スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

蜂月

先日、蜂に刺された。

 

閉館後に疎開の家の周りの草むしりをしていたところ、

 

ズキーン!あ゛っ!激痛である。

 

すぐに蜂だと気付いて走って逃げたが、背中と手に4カ所。

 

しゃがんで下ばかり見ていたので頭上の巣に気づかなかったのだ。

 

疎開の家の窓の下、地面から高さ90僂らいの壁にアシナガバチが巣を作っていた。

 

そして別な壁面にも同じような高さでもうひとつ

 

 

 

お客様に被害があってはいけないので日没を待って駆除したが、

 

こんな低いところに作られた巣は見たことがない(ふつう雨の当たりにくい軒下にある)。

 

翌日、少し離れたところでさらに発見して、ここも高さ80

 

「アシナガバチが低いところに巣を作ると台風被害に注意」と聞くが、どうなんだろう?

 

今度のが来るのか?

 

 

その日の蒸し暑さも猛暑の地域のニュースも嘘みたいに、

 

今日の金木は寒い風が吹いて最高気温22℃。

 

夜はさらに冷えて17℃まで。

 

気温の落差が大きいので、ねぶた観覧の方は体調に気を付けて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

11年目の疎開記念日

 

〜太宰治「庭」より

そんなに、二度も罹災する前に、もっと早く故郷へ行っておればよかったのにと仰言るお方もあるかも知れないが、私は、どうも、二十代に於いて肉親たちのつらよごしの行為をさまざまして来たので、いまさら図々しく長兄の厄介になりに行けない状態であったのである。しかし、二度も罹災して二人の幼児をかかえ、もうどこにも行くところが無くなったので、まあ、当ってくだけろという気持で、ヨロシクタノムという電報を発し、七月の末に甲府を立った。そうして途中かなりの難儀をして、たっぷり四昼夜かかって、やっと津軽の生家に着いた。生家では皆、笑顔を以って迎えてくれた。私のお膳には、お酒もついた。

 

 

昭和20年7月31日は、太宰治が東京、甲府の戦火を逃れて金木の生家にたどり着いた日。「太宰治疎開の家」とは、その時に太宰と妻子に与えられ、多くの創作をした居宅であるという由で付けた名称です。今年も当館にとって特別な日付けを迎えました。

とはいえ、夏祭り直前のこの時期はいつもながら来館者も閑散で、そのために静かにゆっくり館内でくつろげるときでもあり、ガイド希望の方にはスペシャルな思いで(疎開記念日と心に記して)戦禍や終戦前後のエピソードをお話をしています。

 

昨年は公開から10周年。今年は新たな1年目の年ですので、何か記念になるようにと今日の日に合わせて受付入口の施設案内パネルを作り替えてもらいました(日光や風雪にさらされて画面がずいぶん傷んでいたのです)。館内写真を撮り直し、奥に何があるのかわかるよう「太宰の書斎」と大きくフレーズを入れました。

まだまだ知られていない太宰治疎開の家です。更新した案内パネルで、津島家と太宰治の物語を抱いた家のことを、夏休みの旅の太宰読者にもっと気付いてもらえたらいいなと思っています。

 

きのうと今日の作業で、夕方に設置完了。

 

お酒を買いました。

 

before

 

 

after

 

 

 

 

 

 

 

 

疎開

1945729日朝、太宰治と家族は生家へ疎開するために上野駅から汽車に乗り込んだ。

 

前夜、青森市に70機以上のB29が雨のように焼夷弾を投下。明け方には一面廃墟と化し、

 

その爆撃の様子は山を越えた故郷金木からも赤々と空を染めて明るく見えたという。

 

 

 

 

 

 

太宰治「庭」より   

     

昭和二十年、七月の末に、私たち家族四人は上野から汽車に乗りました。私たちは東京で罹災してそれから甲府へ避難して、その甲府でまた丸焼けになって、それでも戦争はまだまだ続くというし、どうせ死ぬのならば、故郷で死んだほうがめんどうが無くてよいと思い、私は妻と五歳の女の子と二歳の男の子を連れて甲府を出発し、その日のうちに上野から青森に向う急行列車に乗り込むつもりであったのですが、空襲警報なんかが出て、上野駅に充満していた数千の旅客たちが殺気立ち、幼い子供を連れている私たちは、はねとばされたおされるような、ひどいめにい、とてもその急行列車には乗り込めず、とうとうその日は、上野駅の改札口の傍で、ごろ寝という事になりました。

〜中略

翌朝とにかく上野駅から一番早く出る汽車、それはどこへ行く汽車だってかまわない、北のほうへ五里でも六里でも行く汽車があったら、それに乗ろうという事になって、上野駅発一番列車、夜明けの五時十分発の白河行きに乗り込みました。

〜中略

ちょうど、東北地方がさかんに空襲を受けていた頃で、仙台は既に大半焼かれ、また私たちが上野駅のコンクリートの上にごろ寝をしていた夜には、青森市に対して焼夷弾攻撃が行われたようで、汽車が北方に進行するにつれて、そこもやられた、ここもやられたという噂が耳にはいり、殊に青森地方は、ひどい被害のようで、青森県の交通全部がとまっているなどという誇大なことを真面目くさって言うひともあり、いつになったら津軽の果の故郷へたどり着く事が出来るやら、まったく暗澹たる気持でした。